メディア人従者浮彫めでぃあじんじゅうしゃうきぼり

  • イラン ペルセポリス
  • アケメネス朝ペルシア
  • 前5世紀
  • 石灰岩
  • H-35.6 W-19.5

このペルセポリスの浮彫は横向きの従者が表されており、おそらく宴会の食物を運ぶ行列の一部であったと思われる。ペルセポリスにおけるこのような隊列はしばしばペルシア人とメディア人の従者が交互に現れる構成をとっている。両者は同じ顔の特徴を有しているが、その服装で区別される。この像はフェルト製のバシュリクをかぶっていることからメディア人の召使である事が分かる。像の右腕が上方に伸ばされているのは彼らの典型的な身振りであって、食物を入れた椀の蓋が落ちないようにしているのであろう。頂部に並ぶ花弁または葉の列のモティーフと隊列の配置からこの断片は当初、ペルセポリスのダリウスⅠ世の宮殿の南階段の東側胸壁の内側にあったのではないかと考えられる。

ペルシャのはじまり

紀元前7世紀末から6世紀初頭にかけて、メソポタミアの最大の帝国アッシリアとその最大のライバル、ウラルトゥは、あいついで北西イランのメディアと南メソポタミアのバビロニアの同盟勢力のもとに降り、更にそのイラン系メディアは西アジア世界を初めて統一する大帝国となりました。

イラン系メディアは程なく東南イランの大きい同盟勢力であったイラン系ペルシャに取って替わられ、アケメネス朝ペルシャが立ちました。

紀元前8-7世紀のこの混沌とした時代を通じて、これらメディア、ペルシャなどのイラン民族は好戦的な神々を仰ぐ伝統的な宗教から、秩序と正義そして平和をもたらす世界の救世主をあおぐゾロアスター教に急速に転向して行きました。

彼らは世界を善悪の対立としてとらえ、最終的に善の勝利としての審判が到来するとする終末論から、現実の世界の変容を求めました。

それは絶対善の創造神アフラ・マズダーのもとに統一された世界、アフラ・マズダーから多くの者の中の唯一の王となされた王を頂く巨大帝国をつくりあげることであったと言えます。

Mary Boyce/ A History of Zoroastrianism/ Leiden I- 1996-172ff. , II- 1982- 105 ff.

ペンダント付トルク 宝飾品ー腕輪、トルク、イヤリング、首飾、指輪印章他 有翼獣文様鉢 鴨装飾ブレスレット 鴨装飾ブレスレット 馬形リュトン 帝王闘争文様鉢 獅子頭形杯 二頭の馬浮彫 ライオングリフィン形リュトン

西アジアの覇権

アケメネス朝ペルシャの三代を嗣いだダレイオスI世は、ペルセポリスに秋の王宮と言われる都を築きました。王宮址の階段壁面の浮彫には諸王からの献上品を持った長い行列が描かれています。

この作品はおそらくこの行列に由来する浮き彫りで、その頭覆からメディア人を表したものと考えられ、その手には今は失われていますが他の類例から想像して、献上の食物を入れた盒を捧げていたものと思われます。

メディア人は、前7世紀にバビロニアと同盟を結び当時のメソポタミアの最大勢力であったアッシリアを倒し、西アジアにおける事実上の覇権を握りました。ペルシャ人はその一同盟勢力だったのです。

前6世紀にはこの覇権は事実上ペルシャ人の手に握られ、アケメネス朝ペルシャが樹立されると、メディア人は一転してペルシャの同盟勢力の一つとなりました。


帝都建設の銘文

――そして此は私がスサに建てた宮殿。その資材は遠方より齎された。地面を地中の岩盤まで深く掘り下げた。土を取り除くと砂利が敷き詰められ、あるところは40キュビットあるいは20キュビットに達した。宮殿はこの砂利の上に建てられたのである。地中深く掘り、砂利を敷き詰め、泥煉瓦を作る―――――これら全ての作業はバビロニア人が行った。 杉材はレバノンの山からアッシリア人がバビロンまで運び、カリア人イオニア人がスサまで運んだ。シッソ材はガンダーラとカルマニアから、ラピス・ラズリ、カーネリアンの準貴石はソグディアナから。トルコ石はホラズム、銀とエボニー材はエジプト、壁の装飾はイオニア、象牙はエチオピア(クシュ)やインドそしてアラコジア、石柱はエラムのアビラドゥから運ばれた。石職人はイオニア人、リディア人。金細工師、象嵌細工師はメディア人、エジプト人。バビロニア人は煉瓦を焼き、メディア人、エジプト人は壁を装飾した。 このスサにすばらしいものを建てんとし、すばらしいものができた。願わくばアフラマツダの神が私、父ウィスタシュパそして我が同胞をみそなわし賜わんことを。

Walter Hintz/ The Elamite Version of the Record of Darius's Palace at Susa / 1950 Journal of Near Eastern Studies Vol.IX No.1

ペンダント付トルク 宝飾品ー腕輪、トルク、イヤリング、首飾、指輪印章他 有翼獣文様鉢 鴨装飾ブレスレット 鴨装飾ブレスレット 馬形リュトン 帝王闘争文様鉢 獅子頭形杯 有翼山羊装飾ブレスレット 獅子頭装飾ブレスレット 双獅子頭装飾ブレスレット 二頭の馬浮彫 ライオングリフィン形リュトン

帝都の建設

アケメネス朝の第三代をついだダレイオス大王は、それまでの王宮のあったパサルガダエの北西、アッシリアによって滅ぼされたエラム王国の古都スサに冬の王宮を建てました。

残された銘文には多くの民族がこの王宮の建設に携わったことが強調されています。

これに続き王はパサルガダエのすぐ南ペルセポリスに秋の王宮と言われる都を築きました。

王宮址の階段壁面の浮彫には諸王からの献上品を持った長い行列が描かれています。

Walter Hintz/ The Elamite Version of the Record of Darius's Palace at Susa / 1950 Journal of Near Eastern Studies Vol.IX No.1

二頭の馬浮彫

Catalogue Entry

This second Shumei relief from Persepolis (see cat. no. 32) depicts a recurring subject, a servant shown in profile, presumably part of a procession of offering bearers. Such files of people at Persepolis were often composed of alternating Persian and Median servants, bearing the same facial features, yet distinguished by their garments. This figure may be identified as a Median servant by the round headgear, a rendering of a felt bashlyk. Here the headgear is depicted simply, lacking an incised line running horizontally across the top or a looping incised line beneath the chin seen on other examples.1 In addition, the top of the bonnet is shown as a smooth curve, unlike those with a three-knobbed crown.2 The facial features are consistent with renderings from Persepolis, with the eye and eyebrow rimmed and shown frontally in bold relief and the mustache and hair curls clearly defined. The right arm of the figure extends upward, perhaps steadying the lid of a covered food bowl, a gesture repeated by many of the Median bearers at Persepolis.

Both the subject matter of this relief and the motif of parallel petals or leaves along the top provide some clue to the fragment's original location at the site. Rows of alternating Median and Persian servants (as opposed to officials with their distinctive garments) topped with this petal pattern frequently appear on the inner face of stairways at Persepolis.3 An intact example of this configuration decorated the inner face of the eastern parapet of the south stairs of the so-called Central Building (now in the Bastan Museum in Tehran).4 A possible original location for the Shumei relief may be the inner face of the eastern parapet of the south stairs of the Palace of Darius at Persepolis, which is partially destroyed,5 yet reveals this cycle of decoration, or from another of the many later stairways at the site.
NT


1. For a fragment with these details see Los Angeles County Museum of Art 63.36.17: see Kuwayama 1963.
2. Roaf 1983, p. 86.
3. Schmidt 1953, pls. 55B, 85, 135.
4. Roaf 1983, pp. 85-7; Schmidt, 1953, pl. 85.
5. Schmidt 1953, pl. 135a, b.