明恵上人書状 - MIHO MUSEUM

明恵上人書状みょうえしょうにんしょじょう

  • 鎌倉時代
  • 13c
  • 紙本墨書
  • H-29.1 W-41.8

 明恵上人は鎌倉時代初期の高僧で、行・学を積んだ碩徳として仰がれた。慈悲を旨とし、特に女人に厚く、山水、草木、鳥獣のすべてを愛した。上人は能筆、歌道にも通じ、また偶々栄西禅師から贈られた茶実を山中に植えて茶園(茶の本山)を開いた功績も大きい。本書状は建暦三年(1213)二月、「摧邪輪」という書物を證月上人慶政を介して貴人(九条道家)に進覧しようとしたものと思われる。

 明恵上人(1173~1232)は鎌倉時代初期の高僧で、行・学を積んだ碩徳として仰がれた。紀伊国有田郡石垣庄吉原の旧家に生まれたが、幼年で父母を喪ったので上洛、西郊の高雄山神護寺に住した叔父の上覚房行慈を頼った。十六歳で出家、東大寺で受戒して明恵房成弁(三十六歳から高弁)を称した。遁世の聖を志して帰郷、湯浅湾岸などで修行したが、釈尊を慕って天竺に渡海を図った。春日大明神がこれを制止したというが(謡曲「春日龍神」)、「釈迦に帰れ」を呼号、南都仏教の華厳宗を宣揚した。建永元年(1206)、後鳥羽上皇から神護寺別所の栂尾山を賜り、興山寺を開いた。なお、東大寺の華厳宗尊勝院学頭職を授かっている。上人は本堂近く鎮守として春日神(のちに住吉神を加う)と白光(天竺)・善妙(唐朝)の華厳護法の両女神とを祀り(石水院となる)、自らは閑所庵居を転々、坐禅修道した。上人は春日大明神(慈悲万行菩薩)の本地を毘廬遮那仏(東大寺大仏)が奈良入りさせた地蔵菩薩だと説く。栂尾山を釈迦仏の霊地とし、ここに南都の景を演出したのである。大仏(伊勢大神)が八幡大菩薩および春日大明神を脇侍(三尊形式)とする三社信仰がここで宣揚された(神仏習合思想が確立)。敬神崇仏の国民思想を育成する三社託宣(正直・清浄・慈悲の三神徳)が間もなく成立流布する。上人は慈悲を旨とし、特に女人に篤く、山水・草木・鳥獣のすべてを愛した。上人の説く伊勢(皇室)・八幡(武家)・春日(藤原氏)の三社信仰は当時の政情にかなって流布、慈悲の言行が世人から渇仰された。上人は能筆、歌道に通じ、趣味・遊芸も修道の資となすべきを教えた。偶々栄西禅師から茶実を贈られて山中に茶園を開いた功果も大きい(茶の本山)。
 明恵上人は多分に夢を見た。それを修道の記録として累年日記風に綴った。その一両巻が流出、「夢の記」(切れ)として珍重される。
 本幅の文面に「摧邪輪(さいじゃりん)」が見える。法然上人が建暦2年(1212)に脱稿、翌3年にある貴人に呈上したという念仏宣揚の「選択本願念仏集」に釈迦本願の明恵上人が論難した書物である。これを法友の証月上人慶政(1189~1268)を介して上記の貴人に進覧しようとしたらしい。証月上人は渡宋を敢行した遁世の聖、法隆寺舎利殿その他の建立などを勧進したり、閑居した洛西の松尾に法華山寺(西松尾寺)を開いた。九条関白道家の俗兄ともいわれ、和歌も多く残している。本書状の2月は建暦3年といえそうだし、「選択集」・「摧邪輪」の両書は九条道家のもとに呈上されたともいえる。文面に上師と見えるのは宛名の証月上人をさし、「摧邪輪」の呈上を周旋したと推測する。「選択集」の流布がはっきりする貴重史料である。

墨蹟(ぼくせき)

一般には墨筆で紙や絹に書いた筆跡のことをいいますが、特に日本では禅僧の書跡を指していいます。村田珠光が大徳寺の一休宗純に参禅して、印可の証明として授けられた圜悟克勤(えんごこくごん)の墨蹟を茶席に掛けて茶禅一味の境地を味わったのがはじまりで、以来宋元の禅僧の墨蹟が尊ばれるようになりました。千利休の頃からはさらに日本の臨済禅僧(虎関師錬など)の墨蹟も珍重され、特に大徳寺派の墨蹟(沢庵宗彭など)が重んじられました。

虎関師錬書 瑞巖道号并号頌 東福円爾二字書 爾然 蘭渓道隆尺牘(東福円爾宛) 寂室元光法語 伝宗峰妙超一行書 達磨圓覚大師

尺牘(せきとく)

手紙のこと。尺は一尺、牘は文字を書いた札のことを指しますが、中国の漢代に一尺ほどの木札に手紙を書いたことから手紙の意で使われるようになりました。純漢文体のものをいいます。


蘭渓道隆尺牘(東福円爾宛)

書き下し

如仰、上師御還
以後、不能見参候、
摧邪輪事、従此
可令案内之由、奉
畏候、此等可有
言上候、恐々 高弁
 二月十九日

證月上人御房

読み下し

仰せの如く、上師御還
り以後、見参に能わず候、
摧邪輪の事、此れより
案内せしむべきの由、畏れ
奉り候、此らの言上
有るべく候、恐々 高弁
 二月十九日

證月上人御房