綴織「蓮華弥勒像」つづれおり「れんげみろくぞう」

  • 日本
  • 平成24(2012)年
  • 綴織(製織 川島織物セルコン)
蓮華弥勒(綴織)

蓮華弥勒(綴織)
 2012年の暮れに完成したこの像は1949年(昭和24)に焼失した法隆寺金堂壁画・二号壁に描かれた半跏思惟菩薩像にあらたな創意を加えて綴織で制作された。ここでの挑戦は、金堂壁画が千数百年の間に蒙った彩色のかすれや壁の汚れなどの経年による変化を表現することでした。何度もの試作により、あえて最高に緻密な曲一寸(約3.03㎝)の間に経糸が60本並んでいる筬密度60枚ではなく、50本の経糸が並んでいる50枚が選ばれ、6000色の緯糸を駆使する自由度が確保されました。それは明治以来追求してきた絵画表現から三次元空間表現への挑戦をMIHO悲母観音で達成した川島織物が、新たに千年の時の流れを捉えようとする挑戦の始まりだったと言えるでしょう。
 この菩薩像が蓮華弥勒と名付けられたのは、プロジェクトを支援した神慈秀明会の教理では観音と弥勒は一体のものとされていることを反映しています。しかし綴織蓮華弥勒像の基となった法隆寺金堂の二号壁とこれを反転した五号壁の菩薩像は、インド以来の半跏思惟像の傾向からすれば、冠をつけ、蓮華を持っていることから観音である可能性が高い。しかもこれらの半跏思惟菩薩像が地面から延びる蓮華の長い茎を持っていることは、インドグプタ朝の観音像の特色と一致しています。ただこれが観音とすれば、法隆寺金堂の小壁八面のうち五面が観音である可能性が生まれ、大壁に表されたのが釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師と考えて良いならば、釈迦に八号壁と十一号壁の文殊、普賢、阿弥陀に三号壁と四号壁の観音、勢至が対応するとして、あと四面は観音ばかりとなってしまいます。そこで半跏思惟像が弥勒に付随する傾向をもつことから二号壁と五号壁の半跏思惟菩薩を弥勒にあてると、残る七号壁と十二号壁の観音と十一面観音が大壁の薬師に対応していることとなります。これらの壁画の全体的な構想は諸説があって定かではないのですが、インド以来の図像的な特徴からすれば観音と見える二号壁と五号壁の半跏思惟像が弥勒に関わる図様として選ばれた可能性もあったのかもしれません。
 後に胎蔵界曼荼羅に蓮華を持つ弥勒菩薩が描かれていることからすれば、密教が整備される以前に、半跏思惟像が弥勒と強く結びついて意識されるようになった中央アジアから中国にかけてのどこかで蓮華を持った弥勒像が生まれていた可能性があり、法隆寺金堂壁画の二号壁と五号壁の図様もこのような地域では弥勒に係るものとして意識されていた可能性があったのではないでしょうか。またそうでなくても朝鮮半島の盛んな弥勒信仰を受けて、わが国で飛鳥から白鳳時代に多くの作例を残す半跏思惟像の大半が大阪羽曳野市の野中寺の金銅製半跏思惟像の台座に刻まれているように、弥勒として尊崇されていたと考えて良いならば、半跏思惟の姿を持つ二号壁と五号壁の図様が、わが国で弥勒に係るものとして選択された可能性もあるように思われます。
 ともあれこの綴織蓮華弥勒像は、インドからわが国にまで伝えられる間に複雑にからみあった観音と弥勒の信仰の糸をより合わせるように蓮華弥勒という名を与えられて現代に甦ったのです。