乾山銹絵染付草文四方鉢けんざんさびえそめつけそうもんよほうばち

  • 京都・鳴滝
  • 江戸時代
  • 18世紀
  • 乾山陶
  • H-5.2 D-25 W-25.2

尾形乾山は、名を権平(ごんぺい)といい、寛文三年(1663)京都の富裕な呉服商「雁金屋」尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生を享けた。次兄は天才的画家の尾形光琳である。本阿弥家とは親戚関係にあり、天性の芸術的資質が二人の内には流れていたといえる。光琳とは対照的に乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったとされている。

父の遺産を相続した乾山は念願の幽居を京都御室に構えた。そこは野々村仁清の窯とは目と鼻の先であり、仁清に陶法を学んだ乾山は、元禄十二年(1699)京都の乾の方角にあたる鳴滝に窯を開いたのである。乾山は技術的にはまだまだ素人の域を出るには至らず、成形、施釉、焼成などは押小路焼の孫兵衛や仁清の長男・清右衛門の協力を得ながら、むしろ器形や図柄といった意匠の分野にその才能を発揮した。

この四方鉢は素地の上にまず白泥で、つぎに銹絵と呉須で草文を描き、透明釉をかけて仕上げている。その手法は「銹絵染付梅波図蓋物」と共通し、その蓋と同様の成形法で作られている。図柄の草文は薄というよりも春蘭に近いような描写であるが、動きがあり、生き生きと描かれている。底部は露胎となっており、大きく銹絵で乾山銘が記されている。内面に一部剥落箇所も見られるが全体の状態もよく、乾山初期の作風をよく示す優品である。

尾形乾山

尾形乾山(おがたけんざん 1663~1743)

 乾山は、寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれました。兄は画家の光琳です。二人の性格は対象的で、光琳が派手好みであったのに対し乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったといわれています。
 野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12年(1699)37歳のとき京都市の鳴滝に開窯しました。そして正徳2年(1712)50歳の乾山は、京市内の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけ「乾山焼」として世にもてはやされました。鳴滝時代の末期からこの丁子屋町時代にかけて兄の光琳は絵付で乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。
 享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮しました。
 乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があります。陶芸作品においては成形、施釉、焼成は他の専門的な陶工に任せたり、絵付についても光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたようです。しかし、乾山の指導のもとにつくられたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられるのです。

乾山銹絵染付掻落絵替汁次 乾山銹絵染付梅波文蓋物 乾山立鶴図黒茶碗 乾山銹絵染付桔梗図筒向付 乾山銹絵染付松図茶碗 乾山色絵短冊皿 乾山銹絵絵替長平皿 乾山色絵寿字輪花向付 乾山銹絵絵替四方皿 乾山銹絵染付絵替筒向付 乾山銹絵染付松図茶碗 乾山色絵椿文向付 乾山銹絵染付春草図茶碗 乾山銹絵染付藤図向付 乾山色絵立葵図向付 乾山色絵雪杉図向付 乾山色絵桔梗文盃台 乾山銹絵馬図香合 乾山銹絵染付絵替扇形向付 乾山銹絵掻落雲唐草文大鉢 乾山銹絵草花波文水指 乾山銹絵染付絵替土器皿 乾山色絵槍梅図茶碗 乾山黒楽梅図茶碗 乾山銹絵染付芙蓉図茶碗 銹絵掻落牡丹唐草文香合 撫子図(尾形乾山筆) 乾山色絵和歌陶板 乾山色絵竜田川図向付 乾山銹絵牡丹画角皿 尾形光琳画 乾山銹絵百合形向付 乾山銹絵松文香合 乾山色絵阿蘭陀写市松文猪口 乾山色絵薄図蓋茶碗 乾山銹絵菊図水指 鶴亀図黒茶碗 紅葉図 尾形乾山筆 三十六歌仙絵/在原業平像 尾形乾山筆 三十六歌仙絵/斎宮女御像 尾形乾山筆 乾山色絵菊文手付汁次 三十六歌仙絵/小野小町像 尾形乾山筆 乾山銹絵染付山水図茶碗

解説(開館1周年記念展)

尾形乾山は,名を権平といい,寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商「雁金屋」尾形宗謙の3男として生を享けた。次兄は天才的画家の尾形光琳である。本阿弥家とは親戚関係にあり,天性の芸術的資質が2人の内には流れていたといえる。光琳とは対照的に乾山は内省的,隠遁的な性格の持ち主であったとされている。

父の遺産を相続した乾山は念願の幽居を京都御室に構えた。そこは野々村仁清の窯とは目と鼻の先であり,仁清に陶法を学んだ乾山は,元禄12年(1699)京都の乾(北西)の方角にあたる鳴滝に窯を開いたのである。乾山は技術的にはまだまだ素人の域を出るには至らず,成形,施釉,焼成などは押小路焼の孫兵衛や仁清の長男・清右衛門の協力を得ながら,むしろ器形や図柄といった意匠の分野にその才能を発揮した。

この四方鉢は素地の上にまず白泥で,つぎに銹絵と呉須で草文を描き,透明釉を掛けて仕上げている。その手法は「銹絵染付梅波文蓋物」(MIHO MUSEUM蔵)と共通し,成形もその蓋と同様の手法で作られている。図柄の草文は薄というよりも春蘭に近いような描写であるが,動きがあり,生き生きと描かれている。底部は露胎となっており,大きく銹絵で乾山銘が記されている。内面に一部剥落箇所も見られるが全体に状態はよく,乾山初期の作風をよく示す優品である。

Catalogue Entry

Ogata Kenzan, whose childhood name was Gonpei, was born in Kanbun 3 (1663) as the third son of Ogata Soken, a wealthy cloth merchant and proprietor of the store "Kariganeya" in Kyoto. Soken's second son became the brilliant painter, Ogata Korin. The Ogata family was related to the Honnami family by blood, and it is perhaps this lineage that endowed these two brothers with exceptional artistic talents. In contrast to Korin, Kenzan is said to have been introspective and reclusive.

After having inherited his father's estate, Kenzan at last set up a place where he could devote himself to art without disturbance at Omuro in Kyoto. Kenzan took advantage of living almost right next to Nonomura Ninsei and learned pottery from him. In Genroku 12 (1699), Kenzan built a kiln at Narutaki in the northwest of Kyoto. Since Kenzan was far from an accomplished ceramic artist, he enlisted help from Magobe, an expert in Oshikoji ware ceramics and from Ninsei's son Seiwemon, in the areas of forming, glazing, and firing of the pieces he produced. Kenzan's outstanding artistic talents were unleashed in the design of the overall shape and of decorative patterns.

To produce this square bowl, it was first coated it with white slip and then grass designs were drawn with iron underglaze and indigo-blue glaze. It was then finished with transparent glaze. The technique of production employed for this piece has something in common with another highly treasured piece known as Covered Square Box with Plum Blossom and Wave Motifs of the Miho Museum, in that the technique of producing this piece appears identical to that of the lid of the latter piece. The grass design may resemble a spring orchid rather than the Japanese pampas grass, yet suggests movement and life. The bottom of this piece is a small stand where a large signature of Kenzan is inscribed largely with an iron underglaze. Though a small area of glaze has flaked off on the inside, the condition of this piece is generally good. It is a splendid work that illustrates well the early style of Kenzan.